小山内知己のブログ

おさない ちき の ぶろぐ です。はてなと Twitter の ID 名は ChieOsanai です。

マイケル・ベイリーの『クイーンになろうした男』の全訳を完成させました

 ここ数ヶ月一人でしこしこ頑張って Michael Bailey の "The Man Who Would Be Queen" を全部訳しました。タイトルは仮題です。米国のトランスジェンダー関連のキャンセル・カルチャーの犠牲者第一号って感じの本です。ゲイ男性とトランスジェンダー女性について論じたポピュラー・サイエンスの本です。原書の初版は 2003 年ですが、核となる内容は古びてないと思います。どなたか出版社で商品化に興味ある方はいないでしょうか。内容がアレなだけに、日本でもトランス活動家の反発を食らうだろうから、親トランス的なイメージで行きたい出版社には厳しいかもれませんが……。ともあれ、私はどこの出版社でも OK です。


 まぁいきなり訳したぞと言っても信用ならないだろうから、お試し版としてこのエントリの最後にその本の Preface (序文、前書き)の全訳を載せておきます。原書で 5 ページのものです。

 あ、序文の前に注意書きを一言。序文の中の「トランスセクシュアル」は耳慣れない言葉ですが、「トランスジェンダー」のベイリー流の言い替えと思ってもらって構いません。厳密に言うと違うけど、まぁ序文の範囲内では大丈夫でしょう。

 それでは、以下に Preface の全訳を置いておきます。



序文

 私の近所の高級デパート店の、最も商品に詳しい化粧品販売員は男性である。女友達からこの話を聞き、私は興味を引かれ、彼に会いに行くことにした。彼は、若く、背の高い、アフリカ系アメリカ人で、頭は剃り上げられていた。彼の手の爪は長く、透明なマニキュアが施されていた。私は、彼が女性客が適切な化粧品を選ぶ手助けをしている様子を観察した。彼の顧客対応が終わったときを見計らって、私は彼に近づき、自己紹介した。彼は、私が心理学者で彼に興味を持って会いにきたと聞いて、少したじろいだ。しかし同時に、少し興奮して嬉しそうな感じで、私に名前を教えてくれた。エドウィンだ。

 彼の職業を知り、彼を外から短く観察するだけで充分だ。私は、彼がけっして自ら口にしない、エドウィンの人生の一面を、自信を持って推測できる。私は彼が子供のとき、どのような子供だったかわかる。彼がどのような種類の人間に性的魅力を感じるのかわかる。彼がどのような種類の活動に興味を持っているのかわかる。彼が五年後どのような姿になっているのかも大体わかる。今の姿から、彼は劇的な変化を遂げている可能性がある。

 私は、私の推測が正しいと確信を持っているが、これは今日の学会の主流の意見とは対立している。社会学の最新の教科書が私の直観の根拠を議論するなら、それはステレオタイプの文脈で議論されるだろう。その教科書は、私の直観がおそらく正しいということも、なぜ正しいのかということも説明しないだろう。本書はそれをより良く議論することを目指している。

 エドウィンは女性的な男性だ。私が会ったことのある男性の中で最も女性的な男性だ。彼に会ったことのある、分別のある人なら誰でも私に同意してくれると思う――その知識の唯一の源(みなもと)が現代の社会学の教科書であるような人以外は。その教科書はこう論じている。「女らしさ」とか「男らしさ」とかいう概念は、絶望的に混乱した概念で、それは観察されるものよりも観察するものの主観に関係しているのだ、と。おそらくその教科書の筆者は、「女らしい」という言葉を使うこと自体に反対しているだろう。彼が「女らしい」という言葉抜きでエドウィンを描写しようとしている様を見るのは、面白いものになるだろう。

 科学的には、我々は、女らしさと男らしさを真剣に受け取る変革期にさしかかっていると言えるだろう。これは一面ではエドウィンのような男性が原因だし、一面ではエドウィンがそうだったような少年たちが原因である。私はエドウィンに、彼の子供時代について尋ねなかったが、これはそうする必要が無かったからだ。私は、エドウィンがお人形遊びが好きだったこと、フットボールが嫌いだったこと、そして彼の親友が女の子だったことを知っている。私は、エドウィンが回りの男の子たちから「シシー」*1と呼ばれ、からかわれていたことも知っている。私は、彼の両親がエドウィンの女性的な行動をこころよく思っていなかったことも知っているし、賭けてもいいが、特に父親はそれを嫌っていただろう。エドウィンの女らしさの源(みなもと)は、明白な社会的影響ではない。おそらくそれは、もっと微かな社会的影響、あるいは、生得的なものだろう。女らしさというものが確かに存在すると認めたときにのみ「何がエドウィンの女らしさを引き起こしたのか」という魅惑的な問いを立てられるのだ。

 ★★★★

 これも尋ねなかったが、私は、彼が男性とセックスすることが好きなことも知っている。すべてのゲイ男性がエドウィンのようではないが、エドウィンのような男性のほぼすべてはゲイなのだ。この四半世紀、社会学者は、男性の同性愛と男性の女らしさの間の結びつきを何とか値切ろうと、できるだけ小さく見せようと奮闘してきた。現代の社会学の標準的な講義によると、性的指向ジェンダーアイデンティティと性別役割行動は別物であり、それぞれ独立した心理学的特性である。だから、ある女性的な男性は、ゲイであるのと同じくらいストレートである可能性がある、と彼らは言う。しかし、これは間違いである。それらの文章は、ゲイ男性を女らしさというスティグマから救おうとする、善意だが誤った意図によって書かれているのだ。問題は、ほとんどのゲイ男性が女性的である、少なくとも、ある確実な面において女性的であるということだ。より良い解決策は、社会が「男性の女らしさ」をスティグマ化することに反対することだ。観測することができない差異だけ許容するというのは、間違った、浅はかな多様性である。

 「女らしさと同性愛は、男性の中で緊密に結びついている」という発言は、政治的に正しくないものだろう――しかし、これは事実としては正しいし、昔から多くの人々に知られてきたことだ。ある種の男性は「男の体の中に女の魂を持っている」というアイディアは、1868 年にカール・ウルリヒス*2が発表したものだが、これはゲイ男性を説明したものであって、トランスセクシュアルを説明したものではない(彼は、自分のような男性を描写するためにこう書いたのだ)。このアイディアは、科学者にとって、ここ数十年「立ち入り禁止」のアイディアだった。だから、ゲイ男性と彼の友人たちにはよく知られている、あの魅惑的な現象――ゲイの声、ゲイの身振り、フェム*3への偏見など――の正体は何なのかという問いは、科学者にはほとんど触れられてこなかった。これらの現象が存在することを、科学的に立証するのは簡単だ。次のステップは、なぜそれが起こるのかを解明することだ。

 もし再びエドウィンに会う機会があれば、そのときは彼の名前と見た目は女性のものに変わっているだろう。ゲイ男性にとって、エドウィンの見た目と物腰は過剰に女性的である。ゲイ・バーに行けば目立つだろう(悪い意味で、つまり、彼がそこで他の人のロマンティックな興味を引くことはほとんど無いだろう)。彼はいま、男性と女性を分かつ境界線の近くにいる。いつか、近いうちに、彼はその線を越えるだろう――そのとき、その行為の最大の、本質的な動機は、渇望(lust)である。

 セクシュアリティジェンダーから分離しようとする試みにおいて、つまづきの石になるのが、トランスセクシュアリズムだ。推測するに、男から女へ*4移行したトランスセクシュアルは、ただ自分が女性の魂を持っているという内なる深い感情に突き動かされて、そうしたのだろう。そして、ある(MtF の)トランスセクシュアルは男性に性的魅力を感じ、別の(MtF の)トランスセクシャルは女性に性的魅力を感じるという事実から、トランスセクシュアリズムはセクシュアリティとは何も関係がないのだと主張する人々がいる。しかしながら、このケースでは例外が原則を立証するのだ。ある男性――彼が性的魅力を感じる対象は女性であり、その意味でヘテロセクシャルであり、かつ、女性になりたいと思っている男性――この男性は、本性的(naturally)に女性的ではない。彼らが女性の魂を持っているという主張は、そのまま額面通りに受け取ることはできない。彼らの行動が何を意味するのかという問いは魅力的だ。しかし、行動どころか、彼らの存在自体が開けた場所でオープンに論じられることはほとんど無いのだ。

 トランスセクシャルセクシュアリティを学ぶこと無しに、トランスセクシュアリズムを理解することはできない。トランスセクシュアルは注目すべき性生活を送る。男を愛するトランスセクシュアルは女になり、男たちを魅了する。女を愛するトランスセクシュアルは、自らが、その愛する理想の女になるために、女になる。今日トランスセクシュアルは文化的なホットな商品である。ライターたちは、低俗でセンセーショナルな関心をトランスセクシュアルの性生活にぶつけて、恬然としている。もうたくさんだ。私は本書によってこの風潮を一掃したいと思っている。

 ★★★★

 この本は女性的な男性たちを扱っていて、男性的な女性たちはまったく取り上げていない。これは私の本源的な関心ではない。ブッチ*5の女性は魅力的だし、私は彼女たちも研究してきた。非常に男性的な女性と非常に女性的な男性の間には、多くのアナロジーがあるが、そこには重要な違いもある。ブッチの女性は、単純に、フェムの男性の正反対の場所に位置しているわけではない。そういうわけで、無理矢理一緒くたにして論じるよりは、男性だけに的を絞って論じた方がいいと思ったのだ。男性的な女性たちには、別のふさわしい場所があるだろう。

 ★★★★

 本書は多くの人々の助力によって成り立っている。多くの科学者と学生が、私との議論に大量の時間を割いてくれた――レイ・ブランチャード、カイタム・ダウード、アン・ローレンス、サイモン・ルヴェイ、リクター・ノートン、マクシーヌ・ピーターセン、ビル・ライナー、ケン・ザッカー。アンジェリカ・キェルティカは私をシカゴのトランスセクシュアルのコミュニティに紹介してくれた――いつも誠実でオープンな態度で、私に何でも教えてくれた。同僚のジョアン・リンゼンマイヤーは草稿の全体を読み、私の考えが明快であることを確認してくれた。ジョセフ・ヘンリー・プレス社の編集者ジェフ・ロビンソンは、文章全体の手直しをしてくれた。ダリア・クーパーには本書を仕上げるときに支えてくれたことに感謝したい。最後に、レスリー・ライアンとシェール・モンダヴィがいなければ、私は本書の考えをまとめることができなかっただろう。二人はともに、それぞれ違った意味で、勇気ある女性である。

*1:訳注:原文は sissy 。女性的な男性を指す言葉

*2:訳注:原文は Karl Ulrichs 。以下、英語版 Wikipedia 冒頭を直訳した。「カール・ハインリヒ・ウルリヒス(1825 年 8 月 ~ 1895 年 7 月)はドイツの弁護士、法学者、ジャーナリスト、作家である。彼は今日、性科学と近代のゲイ・ライツ運動の先駆者であると考えられている [誰に?]」

*3:訳注:ゲイの世界で「女性的なゲイ」を指す言葉

*4:訳注:原文は male-to-female 。略して MtF とも言う。逆の、女から男への移行は FtM

*5:訳注:レズビアンの世界で「男っぽい女」「男役の女性」を指す言葉