小山内知己のブログ

おさない ちき の ぶろぐ です。はてなと Twitter の ID 名は ChieOsanai です。

地動説 vs 天動説

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【問題 A】(上掲動画の問題)
地球は太陽の回りを、一年で何回廻っているでしょう?

【地動説の答え】
1 回
【天動説の答え】
0 回(地球が宇宙の中心なので)

【問題 B】
太陽は地球の回りを(…)

【地動説の答え】
0 回
【天動説の答え】
365 回



 0 回という解答だけだと、地動説論者か天動説論者か判らんのよね。
しかも、べに様(緑髪の子)は復唱のつもりで「太陽が地球の回りを」と言ってるから、地動説なんよね。

 この動画見て自分も混乱したから「天動説」でググって、ちょろっと調べたけど、天動説ではそもそも「自転」「公転」という概念が無いのね。考えてみれば当たり前だが、気付いてなかった。

 しかし、そうなると天動説論者は季節をどう説明してたんだろう? 約 90 日周期でちょっとづつ軌道がズレながら回転している?? それなら一年目に春から始めるとして、一年目の冬から二年目の春に移るときは、元の軌道へ大ジャンプをしている??? ますます混乱してきた。

【追記】
実際は、

【問題 A】
地球は太陽の回りを(…)

【天動説が間違いだということはどこかで聞いて知っているが「自転」「公転」の概念が無い人の、答え】
365 回

もそこそこいそう。

百匹ドラゴン問題の続き (2)

 一応、四匹のケースも考えておこう。

h i j k p
アルファ
ブラボー
チャーリィ
デルタ  

 この世界線 (h) ~ (p) がありうる全パタンである。アルファにとっては、自分がいるのは世界線 (h) か (i) である。どちらかは決定できない。ブラボーにとっては (h) か (j) で、チャーリィにとっては (h) か (k) で、デルタにとっては (h) か (p) である。で、前エントリと同じ思考をすれば、こう結論できる。旅人が来る前に、この島のドラゴンはみな「この中に少なくとも2匹、緑目のドラゴンがいる」ことを知っていたし、全員が知っていることも知っていた。

 任意のドラゴン A は、自分の眼の色は判らないし、自分以外のもう一匹の思考をシミュレートするときの、そのドラゴン自身の眼の色も判らない。だから抽象化すると、島全体で n 匹の緑目のドラゴンがいるとき、すべてのドラゴンが少なくとも n-2 匹の緑目のドラゴンがいることを知っているし、みなが知っていることを知っている、という状態になる。

 だから【問題 P】を抽象化するとこうなる。島全体で n 匹の緑目のドラゴンがいるとき、旅人の言葉が「少なくとも n-1 匹の緑目のドラゴンがいる」だったとき、ドラゴンの行動に変化が起こる(二日目の夜に一斉に飛び立つ)。「少なくとも n-2 匹の緑目のドラゴンがいる」だったとき、何の変化ももたらさない。

百匹のドラゴン問題の続き

 別の説明を思いついた。

 そもそもドラゴンたちが行動を変えるのは新しい情報を得たからである。新しい情報が無ければドラゴンたちは行動を変えない。島に留まる。では【問題 P】の旅人の言葉は、百匹のドラゴンに新しい情報をもたらしたのか? いきなり百匹で説明するのは面倒なので三匹バージョンの例題を出す。しかもアレンジを加えたものである。前エントリのおまけの問題である。

【問題 U】
 ある島に三匹のドラゴンが住んでいる。(略)
 その島のドラゴンはみな緑目である。(略)
 ある日この島を人間の旅人が訪れ、ドラゴン全員が集会に集まっているところで言った。
 「この島に少なくとも二匹、緑目のドラゴンがいる」
 このあと何が起きるだろうか?

【誤答】
 何も起きない。

【正答】
 二日目に三匹のドラゴンが一斉に飛び立つ。


【誤答の解説】
 旅人が来る前の状態を考えよう。この島のドラゴンはみな自分以外の二匹が緑目であることを知っていた。だから旅人の言葉には何も新しい情報は含まれていない。新しい情報が無いので、ドラゴンたちの行動は変わらない。ゆえに何も起きない。

【正答の解説】
 ドラゴン A はこう考える。私が赤目ならば、他の二匹のドラゴンは、今の言葉で、彼が「少なくとも二匹の緑目のドラゴン」の内の一匹であることに気付くだろう。今夜飛び立つだろう。さて、A が二日目の集会に向かうと全員が出席していた。A は「自分が赤目ならば」という仮定が間違っていたことに気付く。つまり自分は緑目である。A は二日目の夜に飛び立つ。同じことを全員のドラゴンが考えるので、全員が二日目の夜に飛び立つ。

 というわけで、この場合、旅人の言葉は新しい情報をもたらしているのだ。なぜこれが新しい情報になるかと言うと、"全員が自分以外の二匹が緑目であることを知っている" ことと、「 "全員が自分以外の二匹が緑目であることを知っている" ことを全員が知っている」ことは別の事態だからである。旅人は集会で後者を暴露したのである。旅人が来る前は "全員が自分以外の二匹が緑目であることを知っている" が、 "全員が自分以外の二匹が緑目であることを知っている" ことを全員が知っている、わけでは無かった。旅人の言葉を聞いた後は、 "全員が自分以外の二匹が緑目であることを知っている" し、全員が知っていることを、全員が知っている状態になったのである。面倒だから「自分が緑目であるかどうか確信を持てない」状態を、単純化して「自分が赤目だと信じている」状態と呼ぶとすると、旅人が来る前は、三匹の緑目のドラゴンがみな「自分だけ赤目で、自分以外は全員緑目である」と信じていた。途方もなく非現実的である。そういう意味では不合理な信念である。非論理的にさえ見える。しかし、どんなに論理的思考ができるものでも、情報が限られていれば、誤った不合理な信念を持つことはありうる。旅人が来る前は、この島はそういう状態だったのだ。


 次に例の三匹バージョンを考える。

【問題 V】
 ある島に三匹のドラゴンが住んでいる。(略)
 その島のドラゴンはみな緑目である。(略)
 ある日この島を人間の旅人が訪れ、ドラゴン全員が集会に集まっているところで言った。
 「この島に少なくとも一匹、緑目のドラゴンがいる」
 このあと何が起きるだろうか?

【答え】
 何も起きない。

【解説】
 旅人が来る前の状態を考えよう。全パタンを表にする。

h i j k
アルファ
ブラボー
チャーリィ

 (h) から (k) の四つの世界線(可能性)がありうる全パタンである。アルファにとっては、自分がいるのは世界線 (h) か (i) である。どちらかは決定できない。ブラボーにとっては、自分がいるのは世界線 (h) か (j) である。チャーリィにとっては、自分がいるのは世界線 (h) か (k) である。

 まずアルファの視点を考える。アルファは勿論「この中に少なくとも一匹、緑目のドラゴンがいる」ことを知っている。自分以外の二匹が緑目なのだから。アルファの視点から見たブラボーは知っているのか。アルファの視点からはアルファの眼の色は判らない。だから仮に赤目だとしよう。アルファの視点内のブラボーは自分の眼の色は判らない。これも仮に赤目だとしよう。しかし、アルファの視点内のブラボーはチャーリィの眼の色は見える。それは緑目である。だからアルファは、旅人が来る前に既に「この中に少なくとも一匹、緑目のドラゴンがいる」ことを知っているし、ブラボーが知っていることも知っている。同じことはアルファの視点内のチャーリィでも言える。だからアルファは既に「この中に少なくとも一匹、緑目のドラゴンがいる」ことを知っているし、それを全員が知っていることも知っている。この段落の「まずアルファの視点を考える」以下のことは、勿論ブラボーでもチャーリィでも言える。だからこう結論できる。旅人が来る前に、この島のドラゴンはみな「この中に少なくとも一匹、緑目のドラゴンがいる」ことを知っていたし、全員が知っていることも知っていた。だから旅人の言葉は何ら新しい情報を含んでいない。ゆえにドラゴンたちの行動は変わらない。何も起きない。

 これは三匹以上の何匹に増やしても変わらない。よって【問題 P】の真の答えは「何も起きない」である。

 俗説が「百日目に百匹のドラゴンが一斉に飛び立つ」としているのは、あの解説に詭弁が含まれているからだ。トリックがあるからだ。どういうトリックかは前エントリに書いた。参照してほしい。

百匹のドラゴン問題の本当の答え

 巷で話題の論理クイズに百匹のドラゴン問題というものがある。マイクロソフトの入社試験で出されたとか噂されているアレである。子供向けの本としてベストセラーになった、あの論理クイズの本にも載ってるらしい(昔チラッと立ち読みした)
 こういうものだ。*1

【問題 P】
 ある島に百匹のドラゴンが住んでいる。ドラゴンたちはみな論理的思考をする。ドラゴンには赤目のものと緑目のものしかいない。その島のドラゴンはみな緑目である。その島には、緑目のドラゴンは島を飛び立たねばならないという掟と、互いの眼の色に言及してはならないという掟と、飛び立つときは誰にも見られず、自分が緑目だと確信した日の夜 23 時に飛び立たねばならないという掟と、毎日 13 時に集会をしなければならないという掟がある。掟以外で島を飛び立つドラゴンはいない。その島には鏡も、顔が映る水面もないため、ドラゴンたちはみな自分以外のドラゴンの眼の色は見えるが、自分の眼の色は判らない。
 ある日この島を人間の旅人が訪れ、ドラゴン全員が集会に集まっているところで言った。
 「この中に少なくとも一匹、緑目のドラゴンがいる」
 このあと何が起きるだろうか?

 巷間に流布されている答えは「百日目に百匹のドラゴンが一斉に飛び立つ」というものである。

 結論から言うとこれは間違いである。正しい答えは「何も起きない」だ。「島全体でドラゴンが三匹以上のとき、何も起きない」だ。今回この問題をじっくり考えて、正しい答えと、なぜこの誤答が出てきたかまで判ったので、この記事にまとめておきたい。

 で、よくある誤答の解説を紹介するところから始めようかと思ったが、その前に、結論は同じ「何も起きない」だが、思考過程が間違っている誤答というものがある。先にそちらを論駁しておこう。それはこういうものである。

 旅人が訪れる前の島の状態を考えると、ドラゴンたちはみな「少なくとも一匹、緑目のドラゴンがいる」ことを知っていた。一匹どころか自分以外の 99 匹が緑目であることを知っているのだ。つまり、旅人の言葉は何も新しい情報を付け加えていない。ゆえに【問題 P】の答えは「何も起きない」である。

 これは私の考える正解ではない。結論は同じだが私の考える正解は別物である。次の問題を考えると判りやすいだろう。

【問題 Q】
 ある島に百匹のドラゴンが住んでいる。(略)
 その島のドラゴンはみな緑目である。(略)
 ある日この島を人間の旅人が訪れ、ドラゴン全員が集会に集まっているところで言った。
 「この中に少なくとも 99 匹、緑目のドラゴンがいる」
 このあと何が起きるだろうか?

【答え】
 二日目の夜に百匹のドラゴンが一斉に飛び立つ。

【解説】
 ドラゴン A はこう考える。私が赤目ならば、他の 99 匹のドラゴンは、今の言葉で、彼が「少なくとも 99 匹の緑目のドラゴン」の内の一匹であることに気付くだろう。今夜飛び立つだろう。さて、A が二日目の集会に向かうと全員が出席していた。A は「自分が赤目ならば」という仮定が間違っていたことに気付く。つまり自分は緑目である。A は二日目の夜に飛び立つ。同じことを全員のドラゴンが考えるので、全員が二日目の夜に飛び立つ。

 というわけで、この場合、旅人の言葉は新しい情報をもたらしているのだ。なぜこれが新しい情報になるかと言うと、"全員が自分以外の 99 匹が緑目であることを知っている" ことと、「 "全員が自分以外の 99 匹が緑目であることを知っている" ことを全員が知っている」ことは別の事態だからである。旅人は後者を暴露したのである。旅人が来る前は "全員が自分以外の 99 匹が緑目であることを知っている" が、 "全員が自分以外の 99 匹が緑目であることを知っている" ことを全員が知っている、わけでは無かった。旅人の言葉を聞いた後は、 "全員が自分以外の 99 匹が緑目であることを知っている" し、全員が知っていることを、全員が知っている状態になったのである。面倒だから「自分が緑目であるかどうか確信を持てない」状態を、単純化して「自分が赤目だと信じている」状態と呼ぶとすると、旅人が来る前は、百匹の緑目のドラゴンがみな「自分だけ赤目で、自分以外は全員緑目である」と信じていた。途轍もなく非現実的である。そういう意味では不合理な信念である。非論理的にさえ見える。しかし、どんなに論理的思考ができるものでも、情報が限られていれば、誤った不合理な信念を持つことはありうる。旅人が来る前は、この島はそういう状態だったのだ。

 以上、論駁終わり。これで読者諸賢を納得させられたのか心許ないが、ここは本題じゃないのでこれきりにする。

 で、世間に流通している誤答の解説を紹介する。こういうものだ。

 判りやすくするためにドラゴン一匹のケースから考えよう。旅人の言葉を聞いたドラゴンは「この島には一匹しかいないから、緑目のドラゴンとは自分のことだな」と考え、その日の夜に飛び立つ。
 次にドラゴン二匹のケースを考える。それぞれのドラゴンをアルファ, ブラボーとすると、一日目にアルファはこう考える。「自分は赤目か緑目かのどちらかである。自分が赤目なら、ブラボーは『少なくとも一匹の緑目のドラゴン』とは自分のことなのだと気付き、今夜飛び立つだろう。自分が緑目ならブラボーは飛び立たないだろう」。アルファが二日目の集会に向かうとブラボーが来た。そこでアルファはこう考える。「つまり、自分は緑目である」。その日の夜にアルファは飛び立つ。同じことをブラボーも考えるのでブラボーも二日目に飛び立つ。
 次にドラゴン三匹のケースを考える。それぞのドラゴンをアルファ, ブラボー, チャーリィとする。アルファはこう考える。自分は赤目か緑目かのどちらかである。自分が赤目ならば、ブラボー, チャーリィは自分を除外して考えるので、互いに、島全体で二匹のケースと同様に考え、二日目にブラボー, チャーリィが飛び立つ。自分が緑目ならば、ブラボー, チャーリィは二日目に飛び立たず、三日目の集会に参加する。アルファが三日目の集会に向かうとブラボー, チャーリィが来た。そこでアルファはこう考える。「つまり自分は緑目である」。その日の夜にアルファは飛び立つ。同じことをブラボー, チャーリィも考えるのでブラボー, チャーリィも三日目に飛び立つ。
 以降、どんなに数を増やしても同じことが起きる。n 匹のドラゴンだと n 日目にドラゴンが一斉に飛び立つ。
 ゆえに百匹のケースでは、百日目に百匹のドラゴンが一斉に飛び立つ。

 どうでしょう。納得できるでしょうか。私は何か腑に落ちないものを感じた。二匹のケースは判るが三匹のケースでは成り立たないように思えるのだ。さらに四匹バージョンに拡張することはできないように思えたのだ。で、今回じっくり考えて「何も起きない」という別の答えを得た。私にはこっちが正しいとしか思えないのだが、どうでしょうか。

 まず上記のよくある解説を厳密に考えてみよう。一匹のケースは明らかなので省略するとして、二匹のケースから考えよう。

【問題 R】
 ある島に二匹のドラゴンが住んでいる。(略)
 その島のドラゴンはみな緑目である。(略)
 ある日この島を人間の旅人が訪れ、ドラゴン全員が集会に集まっているところで言った。
 「この中に少なくとも一匹、緑目のドラゴンがいる」
 このあと何が起きるだろうか?

【答え】 
 二匹のドラゴンが二日目に一斉に飛び立つ

【解説】
 全パターンを表にする。二匹のドラゴンをそれぞれアルファ, ブラボーとする。

表①

d e f g
アルファ 
ブラボー 

 (d) から (g) の四つの世界線(可能性)が全パターンである。アルファはこう考える。まず「少なくとも一匹、緑目のドラゴンがいる」と言われたので、どちらも赤目の世界線 (g) は除外する。自分から見えるブラボーの眼の色は緑なので、世界線 (f) も除外する。残る二パターンは、世界線 (d) と世界線 (e) である。

表➁

d e
アルファ 
ブラボー 

自分がいる世界が、自分が赤目である世界線 (e) ならば、ブラボーはその日のうちに自分が「少なくとも一匹いる緑目のドラゴン」であることに気付き、その日の夜に飛び立つだろう。自分が緑目なら、それは自分もブラボーも緑目の世界線 (d) であり、ブラボーは飛び立たないだろう。アルファが二日目の集会に向かうとブラボーが来た。そこでアルファはこう考える。「自分がいるのはどちらも緑目である世界線 (d) である。つまり自分は緑目だ」。その日の夜(二日目)にアルファは飛び立つ。同じことをブラボーも考えるのでブラボーも二日目に飛び立つ。


 次にドラゴン三匹のケースを考える。

【問題 S】
 ある島に三匹のドラゴンが住んでいる。(略)
 その島のドラゴンはみな緑目である。(略)
 ある日この島を人間の旅人が訪れ、ドラゴン全員が集会に集まっているところで言った。
 「この中に少なくとも一匹、緑目のドラゴンがいる」
 このあと何が起きるだろうか?

【答え】 
 三匹のドラゴンが三日目に一斉に飛び立つ

【解説】
 全パターンを表にする。三匹目をチャーリィとする。

表③

h i j k l m n o
アルファ
ブラボー
チャーリィ

 (h) から (o) の八つの世界線(可能性)が全パターンである。アルファはこう考える。まず「少なくとも一匹、緑目のドラゴンがいる」と言われたので、三匹とも赤目の世界線 (o) は除外する。ここで自分が緑目である場合と赤目である場合に場合分けして考える。自分が××目なら、残る二匹はどう考えるか、を考える。自分が緑目である場合、自分は今夜に島を飛び立たねばならない(しかし、これは仮定の上での話で、確信は持てないので現実には飛び立たない)。自分が赤目である場合、それは世界線 (i), (m), (n) の場合である。

表④

i m n
アルファ
ブラボー
チャーリィ

 ブラボー, チャーリィが、自分が緑目かどうか知りたいとき、二匹にとって既に赤目だと判っているもの(アルファ)は無関係なので除外して考えられる。

表➄

i m n
ブラボー
チャーリィ

 これは島全体で二匹のバージョンと同じである。煩雑になるが、重要なところなので、少し表現を変えて繰り返そう。(i) から (n) の三つの世界線(可能性)が全パターンである(世界線 (o) を既に除外しているので)。ここでブラボーの視点に立って、世界がどう見えるのか考える。まずブラボーの眼から見えるチャーリィの眼は緑目なので、世界線 (m) は除外する。残る二パターンが全パターンである。

表⑥

i n
ブラボー
チャーリィ

 ここでブラボーは、自分が赤目ならばチャーリィはどう考えるか、を考える。自分が赤目ならば、チャーリィはその日のうちに自分が「少なくとも一匹いる緑目のドラゴン」であることに気付き、その日の夜に飛び立つだろう。ということは、ブラボーは翌日の集会に行けば、自分が緑目かどうか判るだろう。

 さて、ブラボーが二日目の集会に向かうとチャーリィを含む全員が出席していた。ということはブラボーの想定の「自分が赤目ならば」という仮定が間違っていたのである。ブラボーは緑目である。とブラボーは確信する。その日の夜(二日目)にブラボーは飛び立つ。同じことをチャーリィも考えるのでチャーリィも二日目に飛び立つはずだ。……《段落 A》

 つまり、この仮定の中ではブラボーとチャーリィは二日目の夜に一斉に飛び立つ。さて、アルファが三日目の集会に向かうとブラボーとチャーリィは出席していた。ということは最初のアルファの「自分が赤目であるなら」という仮定が間違っていたということである。アルファは緑目である。とアルファは確信する。

 そして、三匹とも置かれた条件は同じなので、ここまでの思考はブラボーもチャーリィも行っている。ということは、三匹が三日目の集会に向かうと、そこには全員が出席している。それを見て、三匹は全員が同じ思考をしたことを知っているので、全員が自分が緑目だと確信する。その日の夜(三日目)に三匹は一斉に飛び立つ。

 これはドラゴンを何匹に増やしても変わらない。というわけで、ドラゴンが n 匹だと、ドラゴンたちは n 日目に一斉に飛び立つ。ゆえに【問題 P】の答えは「百日目に百匹のドラゴンが一斉に飛び立つ」である。

 どうでしょう。もっともだ。何も間違ってないじゃないかと思っただろうか。

 実はこの解説は二匹バージョンまでは正しい。三匹バージョンに、論理の飛躍があるのだ。正しい二匹以下バージョンと間違った三匹以上バージョンをシームレスに繋げているために、全体で間違った解説になっているのだ。具体的に言うと、ここである。

さて、ブラボーが二日目の集会に向かうと

 以後、先の解説では、この「二日目の集会」を現実の集会であるかのように描いている。しかし、冷静に考えてほしいが、これはアルファの「私が赤目ならば……」という仮定の中の「二日目の集会」なのだ。アルファの想像の中の集会なので、現実の集会とは違う。想像の中の「二日目の集会」は仮説の反証には使えない。それを先の解説では、現実の集会であり、仮説の反証に使えるかのように描いている(まぁ半分以上無意識の混同だろうけど)。ここにトリックがあるのだ。

 では、現実の二日目の集会では何が起きるのか。《段落 A》を書き替える形で書こう。

 さて、ブラボーが二日目の集会に向かうとチャーリィを含む全員が出席していた。「ということはブラボーの想定の『自分が赤目ならば』という仮定が間違っていたのである」ということになるか。いや、ならない。なぜなら現実の集会では、ブラボーの眼からはアルファの眼の色が見え、それは緑目だからである。先の解説でブラボーが「チャーリィが出席しているから、残り一匹の自分は赤目ではない(= 緑目だ)」と確信できたのは、そもそもこのブラボーの思考全体が、アルファの「自分が赤目であるならば」という想定の中のシナリオだったからだ。アルファは赤目であるという大前提があったからだ。現実にはアルファは緑目であり、現実の集会ではブラボーはそれを知っている。アルファは赤目じゃないので除外できない。ブラボーは「残り一匹の自分」ではない。だから現実の二日目の集会でブラボーが、チャーリィの出席を確認しても、ブラボーは自分の眼の色を知ることはできない。ブラボーは自分が緑目だと確信することはできないので、二日目の夜に飛び立たたず、三日目の集会に参加する。ブラボーが三日目の集会に参加するという結果は同じだが、理由が違うので、先の解説のその後の推論も成り立たない。*2 三日目の集会でアルファがブラボーの姿を確認しても、それはアルファに新しい情報をもたらさない。

 以後、何日経とうが情報は増えないので、この状態が固定される。つまり、島全体で三匹だと何も起きない。これは三匹以上の何匹に増えようが変わらない。ゆえに正しい答えはこうである。

 島全体で緑目のドラゴンが一匹のとき、ドラゴンはその日の夜に飛び立つ。島全体で緑目のドラゴンが二匹のとき、ドラゴンたちは二日目に飛び立つ。島全体で緑目のドラゴンが三匹以上のとき、何も起きない。したがって、【問題 P】の答えは「何も起きない」である。

 どうでしょう。納得していただけたでしょうか。……いや、正直自分でも説明が下手な気がするな。別の角度から説明しよう。完全にアルファの視点に内属したところから説明しよう。

 俗説の解説がやっていることは要するにこういうことである。アルファは自分が緑目かどうか判らないので、とりあえず赤目と仮定する。そしてブラボーの視点に潜り込み、

【ブラボーが自分を赤目だと仮定した】ならば【残り一匹のチャーリィは必然的に自分が緑目だと気付き*3 、一日目に飛び立つ】

という仮説を立てる。記号化するなら

D ⇒ E

である。ここから、現実にチャーリィは一日目に飛び立たなかったという観察を得る。つまり ¬E 。そして ¬E ⇒ ¬D 。これは D ⇒ E の対偶なので、D ⇒ E と同値である。ゆえに ¬D であり、ブラボーが自分を赤目だと仮定したのは間違いだった、ブラボーは自分が緑目だと気付く、という結論を導いている。しかし、先の解説を詳しく見れば判るように D は実は単数の命題ではない。正確に書くと

【アルファが自分を赤目だと仮定し、かつ、ブラボーが自分を赤目だと仮定した】ならば【残り一匹のチャーリィは必然的に自分が緑目だと気付き、一日目に飛び立つ】

という仮説である。正確に記号化するとこうだ。

( F ∧ D ) ⇒ E

だから対偶を取るとこうなる。¬E ⇒ ¬( F ∧ D ) 。これはド=モルガンの法則を使えばこうなる。¬E ⇒ ( ¬F ∨ ¬D ) 。ここから、あの解説では【ブラボーが自分を赤目だと仮定したのは間違いだった】( ¬E ⇒ ¬D ) という結論を導いている。しかし、これから導き出せる結論はそれだけではない。【アルファが自分を赤目だと仮定したのは間違いだった】( ¬E ⇒ ¬F ) も導ける。そして、一日目にチャーリィが飛び立たなかったという事実からは、どちらの結論を引き出すべきか決定できない。ゆえに例の解説のその後の推論も成り立たない。したがって、「島全体でドラゴンが三匹のときは、何も起きない」が正解になる。

 俗説の解説では、ここ

 ブラボー, チャーリィが、自分が緑目かどうか知りたいとき、二匹にとって既に赤目だと判っているもの(アルファ)は無関係なので除外して考えられる。

 で、赤目のアルファ(つまり F )を早々に除外することによって、( F ∧ D ) を D という単数の命題に見せかけている。ここにトリックがあったのだ。

 あともう一つトリックと言えばこれですね。よくある解説はこう考えてるんですね。

一匹のケースではその日の夜にドラゴンが飛び立つ。
   ↓
二匹のケースでは二日目に二匹が一斉に飛び立つ。
   ↓
よって、n 匹のケースでは n 日目に n 匹が一斉に飛び立つ。

 この単純な勘違い。上記の取り違えとこの数学的帰納法(っぽいもの)との合わせ技で、彼らは「百匹のドラゴンなら百日目に飛び立つ」が答えだと早合点したのでしょう。



おまけ

まぁでも、島全体で二匹までしか成り立たないというのは寂しいですね。こういう問題にするとミスリードできるんじゃないでしょうか。

【問題 T】
 ある島に百匹のドラゴンが住んでいる。(略)
 その島のドラゴンは二匹だけ緑目で、他は全員赤目である。(略)
 ある日この島を人間の旅人が訪れ、ドラゴン全員が集会に集まっているところで言った。
 「この中に少なくとも一匹、緑目のドラゴンがいる」
 このあと何が起きるだろうか?

【答え】
 二日目の夜に緑目の二匹のドラゴンが一斉に飛び立つ。


【問題 U】
 ある島に三匹のドラゴンが住んでいる。(略)
 その島のドラゴンはみな緑目である。(略)
 ある日この島を人間の旅人が訪れ、ドラゴン全員が集会に集まっているところで言った。
 「この中に少なくとも二匹、緑目のドラゴンがいる」
 このあと何が起きるだろうか?

【答え】
 二日目の夜に三匹のドラゴンが一斉に飛び立つ。

*1:とはいえ、巷間に流布されているものは文意が曖昧なものが多い。だいぶ独自のアレンジを加えた。本質は保たれてると思う。

*2:理由が違うとはいえ、結果は同じなので紛らわしい。通説はここを混同しているのだろう。これもまたトリックである。

*3:アルファもブラボーも自身を赤目と仮定しているので

永井均の『哲学探究3』の 8. 20 について

俺は最近、永井均の『「純粋理性批判」を立て直す――カントの誤診1』(以下『カントの誤診1』と略す)を読んだ。そこで永井氏は、彼の以前の著作である『独在性の矛は超越論的構成の盾を貫きうるか――哲学探究3』(以下『哲学探究3』と略す)の第八章段落 20 (以下、 8. 20 と略す)を頻繁に参照している。たぶん十回以上。そんなに頻繁に参照するなら、そう長い文章でも無いし、この本(『カントの誤診1』)に付録として貼り付けとけや、と言いたくなる。

が、まぁそれは置いといて

俺は具体的な内容を忘れていたので『哲学探究3』を再読した。一読ちょっと混乱した。そして最初に読んだときも混乱したことを思い出した。俺の理解力が足りないのかと思ったが、よく読んだら、永井氏の文章自体が混乱していることに気付いた。このエントリでは、どう混乱していて、じゃあどう直せばいいのかを示したい。

で、さっそく問題の箇所を引用する。8. 20 の三行目から 8. 20 の終わりまで。(…)は引用者による省略である。
(ちなみに、初版からの引用である。もしかしたら第二版以降で書き替えてるかもしれん。そこは確認していない)

 まずは中心をもたないのっぺりした通常の世界像から出発しよう。しかし実は、その内部に在るとされている人間たちのうちの一人がその世界そのものを(というかおよそすべてを)はじめて開いているという異様なあり方をしていることに気づく(一体こいつは何だ?)。すると世界像に歪みが生じ、いびつな世界像が出来上がる。ここまでにもすでに矛盾があるともいえはするが、次の第三ステップがより巨大な(しかしなぜか整合的ともいえる)高度な矛盾をそこに持ち込む。それはこの異様さを一般化してみんなに分け与えるというステップである。第二ステップまでは一つの図に描ける(という意味では矛盾していない)が、この第三ステップはもはやどうしても一つの図には描けない。なぜなら、異様な突出者は一つしかないという当初の真実と、それと(本質的には!)同じものが複数個存在しているという別の真実が共存しなければならないからである(…)。この第三ステップが完成すると、世界はある意味では再び中心を欠くあり方に舞い戻ることになる(誰もが同じように中心なのだから)。とはいえこれは、第一ステップの平坦(のっぺり)さとは平坦(のっぺり)の意味が違うだろう。実のところは共存できない種類の作られた平坦さだからだ。この第三の世界像を認めたとしても、現実にはそのどれかから開ける視点しかありえず、その一つが現実であるならその他はじつは非現実であるほかはない、というあり方が認められて(通常は「現実」という語そのものは実は存在しないほうの全体を平坦に見渡せる見方のほうにイデオロギー的に割り当てられはするが)も、しかしそれは必ず各人と相対的(相関的)に存在する主観性という問題に矮小化されることになる(すなわち「……とっては」付きに)。あたかもその意味での主観性と客観性との(あるいはこれを解釈し変えて精神と物質との)対立が主要な対立軸であるかのようなイデオロギーが瀰漫することになり、その奥底に隠れている遥かに重大な独在性と主観性との真の矛盾対立が隠されてしまう。しかし、ときにその空隙を突いて現れてくる問題があり、その一つがいまここで問題にしている、相対的(相関的)でない、すなわち「……とっては」の付けられない主観性の問題としての、「私」の主体としての用法の問題、とりわけその誤同定の不可能性の問題である。これは、もしこの独在性と主観性との「絶対矛盾の自己同一」的な関係を一枚の絵に描けるなら、いっきにその意味が理解されるような問題であると思う。

どうでしょう? 読者の皆さんはすっと理解できただろうか。おそらくほとんどの人が判らないだろう(そもそも永井哲学に親しんでいる人以外は判らない、という判らなさとは別の判らなさとして)。

ここには三つの世界像が出てくる。そして世界像が乗っている段階として三つの水準(とこのエントリでは呼ぶこととする)があるといえる。そして「次の第三ステップがより巨大な(…)高度な矛盾をそこに持ち込む」という箇所から判るように「ステップ」は世界像とも水準とも違うもの、一つの水準を次の水準に変化させる動きのことだろう。図式化するとこうだ。

第一水準
  ↓(第一ステップ)
第二水準
  ↓(第二ステップ)
第三水準

つまり、この文章に出てくるのは、水準が三つ、(その中の)世界像が三つ、ステップが二つだ。だのに永井氏は、水準と世界像、水準とステップを混同している。これが混乱の源だと思う。これを明確に書き分ければ、だいぶすっきりすると思う。

実は、もう一つ、この文章には欠陥がある。この事態を描写するためには必ず出さねばならない <私> が出てこないのだ。<私> がいないならこの文章は初めから「各人にとってはの私」、つまり「私」を描写したものとして読まれるほかない。到底、満足できる良い描写とは言い難い。なぜこれをリファレンスとして何度も使い回すのか、俺にはよく判らない(他にも言葉の言い回し全般で違和感があり、あまりこういうことを言いたくないが、寄る年波を感じさせられる。編集者、仕事しろ)

最後に以上の観点を踏まえた、俺なりにアレンジした文章を乗せておく。つまり永井氏はこういうことを言いたかったのだろう。

 まずは中心を持たない、平坦な(のっぺりした)通常の世界像から出発しよう(第一水準)。しかし、その内部に在るとされるものの一人である私が、実はその世界そのものを初めて開いているという異様なあり方(独在性)をしていることに気付く。一体こいつは何だ? すると世界像に歪みが生じ(第一ステップ)、新たに歪な世界像が出来上がる(第二水準)。なぜなら、この私を含む、新たな世界像は、世界の中の一存在者にすぎない私が、世界全体を開いているという、そういう奇妙な世界を表す世界像でなければならないからだ。ここまでにすでに矛盾があるともいえるが、次の第二ステップがより巨大で高度な矛盾をそこに持ち込む。それはこの異様さを一般化してみなに分け与えるというステップである。第一ステップとその結果できる第二水準までは一つの図に描ける(という意味では矛盾していない)が、この第二ステップとその結果できる第三水準はもはやどうしても一つの図には描けない。なぜならそれは、異様な突出者は一つしかいないという当初の真実(第二水準)と、それと本質的に同じものが複数個存在しているという別の真実(第三水準)が共存しなければならない、そういう矛盾した世界なのだから。この第二ステップが起こり第三水準が完成すると、世界は、ある意味では、中心を欠くのっぺりした世界に舞い戻ることになる(誰もが同じように中心なのだから)。とはいえ、この世界(第三水準)の平坦さ(のっぺりさ)は、第一水準の平坦さ(のっぺりさ)とは別物になっているだろう。この第三水準の平坦さは、実のところは共存できないものを無理矢理共存させている、作られた平坦さなのだから。この第三の世界像(第三水準)が出来上がった後では、第二水準の、唯一の異様な突出者は、各人に相対的に存在する主観性という問題につねに読み替えられ、矮小化されることになる(すなわち「……とっては」付きの主観性に)。「あなたに『とっては』世界はあなたを中心に開けているのだろうが、私に『とっては』私を中心に開けており、そして、これは万人に共通のことで、誰でもその人に『とっては』世界はその人を中心に開けているのだ」というわけだ。あたかもその意味での主観性と客観性(あるいは精神と物質)の対立が主要な対立軸であるかのようなイデオロギーが瀰漫することになり、それより遥かに重大な、独在性と主観性という真の対立(/矛盾)はその奥底に深く隠されてしまう。しかし、ときに空隙を突いて現れてくる問題があり、その一つが、いまここで議論している、「……とっては」の付けられない主観性の問題であり、つまり「私」の主体としての用法の問題、とりわけその誤同定不可能性問題である。この問題は、もしこの独在性と主観性の「絶対矛盾の自己同一」的な関係を一枚の絵に描けるなら、一気にその意味が理解されるような問題であると思う。

世界一わかりやすい麻雀点数計算の覚え方

四原則にまとめました。

原則 I :基本は 30 符
原則 II :平和が付くと常にマイナス 10 符
原則 III :面前ロンは常にプラス 10 符
原則 IV :上記の例外として、チートイツは常に 25 符

原則の中に例外があるところがつらいところだけど、今の日本麻雀の点数計算が本当にこうなってるんだからしょうがない。

ガチ勢が読んだら即座に「符ハネが無いじゃないか」と突っ込んでくるでしょう。確かに符ハネは省きました。
ただ、符ハネが付いてもこれより点数が高くなるだけです。絶対にこれより点数が安くなることはありません。
そして、符ハネが出るのは全体の 10% 未満です。この四原則だけで 90% 以上はカバーできます。
最初はこれで充分でしょう。

あとは、子の 30 符ロンと親の 30 ロンの点数を丸暗記してください。
子は 1000点、2000点、3900点、7700点です。セン、ニセン、ザンク、チッチーです。
親は 1500点、2900点、5800点、11600点です。イチゴー、ニック、ゴッパー、ピンピンロクです。

最初は、他の点数は、この 30 符より安いか高いかのパターンだけ覚えてください。
例えば、平和ツモは常に 20 符です。平和無しの面前ロンは常に 40 符以上です。
ネット麻雀やってたら勝手に計算してくれるし、それ見てたら自然に覚えられると思います。

この動画がひどい & バックビート解説

coldcrush3000 氏のこの動画について

体で感じて必ずノれる! バックビート解説 可視化映像付き!
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YouTube で片仮名で「バックビート」で検索したら上位に出てくる、バックビート解説動画で、46 分 06 秒のところに洋楽アーティストの「頭重心 / バックビート」分類の表が出てくるが、間違いが多くて使い物にならない!

U2 の "Where the streets have no name" はバックビートだし、動画冒頭のトピックの Jamiroquai の "Cosmic girl" もバックビート。
Oasis の "Wonderwall" は頭重心だし(歌詞に backbeat って出てくるのに頭重心なのちょっと面白い)、blur の "Girls and Boys" はバックビート。

動画内にアニメ『けいおん』の画像がちらっと映って「ウンタン理論」の話をしているところからして、松村敬史フォロワーだろうけど、この人の解釈は間違ってるから、こんな動画見ずに松村氏の動画を一本でも多く見た方がいいよ。

例えば、coldcrush3000 氏は Aerosmith を頭重心と言っているが、Aerosmith の "Walk this way" は綺麗なバックビートです。
そして松村氏が "Walk this way" のギターを頭重心で弾いたらどうなるか実演する動画を三年前にアップしています。
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明快ですね(タイトルの「ロックの頭重心」とは「日本ロック界の頭重心」という意味でしょう)

coldcrush3000 氏の動画後半でこれがバックビートだと挙げてる実例も全部微妙で判りにくい。coldcrush3000 氏が解釈を間違えているからだろう。たぶん 33 分 21 秒からのところが致命的。「エンヤー、トット」の「トット」の位置をいくらズラしてもバックビートにはならないのです。動画前半で彼自身が言っているように、ちゃんと「エンヤー」の位置をズラさねばならないのです(そして coldcrush3000 氏が正しいことを言ってるところは全部松村氏のコピーです。彼は松村氏のエピゴーネンです)

そもそも「バックビート」の対義語は「頭重心」だと彼自身が言ってますよね。じゃあ、バックビートを「重心」という言葉を使って表現したらどうなるのか? 論理的に考えて「お尻重心」にしかならないですよね。つまり、頭重心にある重心をそのまま活かして、それをズラしてお尻の 2 & 4 のところに持って行く。そうしないとバックビートにならないのです。

図解するなら、頭重心の曲はこうです(四角で囲んだところが一つの小節です。あと、ちょっと判りにくいですが、重心のある「エン」の部分を太字にしています)

エンヤー トット エンヤー トット エンヤー トット エンヤー トット

バックビートの曲はこう

トット エンヤー トット エンヤー トット エンヤー トット エンヤー

です。

1, 2, 3, 4 と数えて無理矢理

エンヤー トット エンヤー トッ エンヤー トット エンヤー トッ

にすることなんてできないのです(「トッ」の部分が太字)。それをやろうとしてるから、日本のポピュラー音楽に似非バックビート、なんちゃってバックビートが氾濫しているのです。松村氏の言うところの「誤拍裏打ち」が氾濫しているのです。2 & 4 でスネアが鳴ってるけど、2 & 4 に重心(ポケット)が無くて、曲全体が頭重心になっているというアレです。 coldcrush3000 氏はここをミスっているからその先の考察も全部間違いになったのだと思います。

実のところバックビートを使いこなしているアーティストもいきなり「トット」から始めているわけではありません。本編の前に空の小節を作って、そこに、その小節の四拍の最後の 4 であり、同時に本編の四拍の最初の 1 がズレたものである「エンヤー」を入れて、そこから始めているのです。4 = 1 の「エンヤー」を入れているのです(最初のスネアの「タンッ」というやつです)。言葉にするとややこしいけど、つまり、こういうことです。

休符 休符 休符 エンヤー トット エンヤー トット エンヤー

これで本編はずっと「トット(1)、エンヤー(2)、トット(3)、エンヤー(4)」の繰り返しになり、2 & 4 に重心があるバックビートになるのです。つまり、より正確に言うと、バックビートは 2 & 4 に重心があるのでは無く、4 & 2 に重心があるのです。バックビートは 4 ( = 1) から始まり、4 で終わるのです。松村氏が「4 から入る」「4 入り」と言ってるのがこれです。

あと、私はバックビート判別法は手拍子をおすすめしたい。足で「ドッ ドッ ドッ ドッ」という四拍を見つけて、その上に 1 & 3 に手拍子を入れる、あるいは、4 & 2 で手拍子を入れる。1 & 3 の手拍子が合えば、その曲は頭重心です。4 & 2 の手拍子が合えば、その曲はバックビートです。一度コツを掴めば簡単だと思います。2 & 4 だと混同しやすいので、4 & 2 でやった方がいいと思います。

以下、YouTube 動画の実例を紹介して締めようと思います。

まずバックビートの典型例。
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最初の曲は冒頭のスネアが判りやすいですね。前の方の二曲は、強烈なバックビートで、いくら頭重心に洗脳されている日本人でも 1 & 3 で手拍子を入れると気持ち悪くなるんじゃないかな。スネアの音に合わせるといいです。

頭重心の典型例は……なんかあまり良い例が思い浮かばないんですが、例えば
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これだとはっきり頭重心が感じられるんじゃないでしょうか。4 & 2 で手拍子を入れると違和感があるんじゃないかな。

上でちょっと曖昧な書き方をしたのは、現代日本には「誤拍裏打ち」の頭重心が氾濫していて、誤拍裏打ちじゃない頭重心の典型例がすぐ出てこないという意味なんですが、その誤拍裏打ちとは、以下のようなものです。日本で一時期メチャクチャ流行ったバンド形式で四つ打ちをやってるやつですね。
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同じくフレデリック
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古いところだと
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最近のものだと、ガンダム最新作の『ジークアクス』のオープニングもこれですね。キャラクターが走ってる映像が付いてるから判りやすい。

米津玄師「Plazma」
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洋楽だと
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特にフレデリックのオドループは松村氏がやっちゃダメって言ってること全部やってて面白い。
Police の「見つめていたい」は 2 & 4 でスネアを強く叩いてるけど、曲全体は頭重心なので、スネアが浮いててビートが滅茶苦茶白く聴こえますね。

最後に、オリジナルがバックビートだけど、アレンジしたものが頭重心になっているものを紹介します。

オリジナル
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アレンジ
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オリジナル
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アレンジ
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最後の "September" のアレンジしたバージョンは coldcrush3000 氏も挙げているが、アレンジした方だけ挙げて、オリジナルを省略するというのは意味が判らない。彼はオリジナルはバックビートだということに気付いていないのではないか。